文化対立と療育 

 文化差と発達障がいの問題には大きな共通点がある、と私は考えています。

 先日、共同研究者と一緒にやっている「文化理解の方法論研究会(MC研)http://rcsp.main.jp/mc/index.html」で、
明治大学の岸磨貴子さんに、彼女がトルコで頼まれて今模索中の「シリア難民とトルコ住民の対話的相互理解」のた
めのプロジェクトについて話をしてもらいました。

 トルコは人口が8000万のところ、350万以上のシリア難民が流入して暮らしていて、もとはオスマントルコという
一つの国だったと言っても、言語や文字などの文化の違いもあり、摩擦が深刻化してきています。その解決の道を探る
ということで岸さんが頼まれて模索しているんですね。

 前回MC研で話をしてもらったときに、僕らがやっている「異質な者同士の対話的な相互理解」に関する実践的研究
の視点から出したアイディアが彼女にヒットして、早速この春にトルコで新しいプログラムを実践してきたその報告
でした。

 その際、彼女が大事にしている視点、「難民支援」の姿勢が、研究所が発達障がい者支援について大事にしている
ことと基本的に一致していたのがとても面白かったです。

 ポイントは、相手を単に「支援される受動的な存在」と見ないところです。そうではなく、自分らしく主体的に生き
ていく模索を続けるひとりの人として見て、その人との新しいつながりを作り上げていく、というスタンスが完全に一
致するんですね。そこでは「支援する人」と「支援される人」の上下関係が生まれません。対等な人間同士の「共生」
が模索されるわけです。

 そういう新しい関係づくり(としての支援)を行うときに、彼女が「パフォーマンス心理学」の視点から大事にして
いることが「遊ぶ(=共同作業をする)」ということでした。一緒に楽しみを共有し、そこから創造的に何かを作り上
げていこうとする姿勢で、これが実際に今回の実践でもかなり効果を上げているのですね。この視点も研究所のスタン
スと共有されています。

 この春から、日系の子どもへの支援を頑張っている愛知・三重のみなさんとの定例研修が始まり、そこでは「発達障
がい」と「異文化」という二つの大きな困難を抱えている子どもたち、および療育や子育てについて違った考え方を持
っていて、また言葉もうまく通じにくいスタッフ間の関係をどう調整していくのか、ということについて考えていく作
業をしようとしています。

 そういうところにも直結するような、いろんなアイディアを岸さんの実践からもらいました。

ズレの調整としての「療育」「支援」

 先にご紹介した「第12回文化理解の方法論研究会(MC研)」での発表(異文化間コミュニケーションの視点から見た発達障がいと発達支援)には、若手の研究者の方たちも新たに何人も参加してくださって、3時間余り私の発表を熱心に聞いてくださいました。

 人と人のコミュニケーションはお互いの感じ方や理解、やり方などにズレが大きいとうまくいきません。そのずれがある程度以上大きくなると、そのコミュニケーションはディスコミュニケーションとして意識されるようになります。

 このような状態は何らかのコミュニケーションがあるところでは常に発生するものです。たとえば私が研究上直接扱ったものに限っても異文化間のコミュニケーション(異文化対立)、大人と幼児のコミュニケーション(しつけ場面)、取調官と被疑者のコミュニケーション(冤罪を生む取調)などで典型的ですし、さらに身近には夫婦間のコミュニケーション(夫婦喧嘩)や教師と生徒(生徒指導や授業場面)、職場の上司と部下(指導場面)など、あらゆるところでその状態を見出すことができます。

 同じことが発達障がい児者と定型発達者の間にも起こる、というのが今回の研究発表の中心的な議論になります。

 通常はこの発達障がい児者と定型発達者の間に生まれるコミュニケーションのズレは、定型の基準によって判断され、発達障がい者は「正しい基準を身に着けられない、基準にそって行動できない」人として「障がい児者」とみなされます。けれども少し視点を変えて発達障がいと言われる人は、「定型発達者とは少し異なるものの見方や感じ方、ふるまい方を特性としてもって生きている人々」と考えた場合、また違う見方が生まれることになります。

 20年ほど前から発達障がいの当事者が自らの世界を本などによって語ってくれるようになり、定型発達者とは大きく異なる当事者の世界やその世界での生き方が私たちにも少しずつ見えてくるようになりました。Eテレのバリバラといった番組では、発達障がい者の「生き方」をポジティヴに見ていこうとする面白い試みが続いています。さらに現在はその当事者が自らの立場を研究する当事者研究もだんだん進んできています。

 医療の分野でも発達障がいの問題を「治療の対象」という形では見ず、個性的な生き方のサポートといった視点から見る立場が少しずつ力を持ち始めているようです。

 まとめていうと、発達障がい者は「定型発達者からの援助の<対象>」ではなく、定型発達者とは異なる特性を持って主体的に生きる<人>として社会の中に現れ、自らを主張できる存在になりつつあるということになります。障がいの問題はそこで、「障がい者の問題」ではなく、「お互いの問題」になります。

 この視点から見ると、「障がい」の「症状」として語られてきたものは、お互いの特性の違いから生まれるディスコミュニケーション事態として理解されなおすことになり、そうすると「療育」「支援」はそのディスコミュニケーションを「お互いの工夫で調整していく働き」という形でその意味を変えていくことになります。

 そんなふうに異なる生き方を持つ人どうしが接触していろいろなトラブルがおこり、関係の調整が必要になる、というこの仕組みは「異文化間接触」の場面で常に起こることなのです。したがって発達障がいの問題を「異文化理解」の問題として分析し、議論する可能性がそこから見出されることになります。

 研究会の当日はそんな話をして、多くの方に興味を持っていただけたようです。今後の展開が楽しみです。

 12回MC研山本レジュメ

 

発達障がいの問題を対話的に考える視点

  障がいの問題を文化心理学的に考えるとどうなるでしょうか。障がいをめぐる諸現象を素直に見つめれば、それは決して固定的なものではなく、時代や社会やその人の生きる文脈によって次々に変化し、多様な表れをしてきているものです。障がいを「障がい者」の内部にあるなんらかの実体のように考えるのではなく、定型発達者との「間」にその時々に生ずる相互理解のむつかしさ、コミュニケーションの困難さ、共同作業の成立のし難さとして考える、という視点がそこから導かれることになります。

  定型発達者を基準とした、一方的な視点からの議論ではなく、障がい当事者の視点との交差の中で発達障害という問題を考え、そしてお互いの関係の調整法のひとつとして「療育」を考えることがこれからますます必要になるでしょう。それは今ようやくその価値を認められつつある「(障がい)当事者研究」の次のステップ、「定型者発達者と生涯発達者の共生のための対話研究」という形をとることになります。

  私は異文化間コミュニケーションを始め、これまでいくつかの領域で「異質な者同士の共生」という問題を「ディスコミュニケーション研究」という視角から行ってきました。そこから「差の文化心理学」という新しい見方を提起するようになりましたし、関連する諸概念(EMS、規範的媒介項、機能的実体化、具体的普遍化など)を提案してきています。

  そのような視点から、改めて発達障がいの問題を整理するとどうなるか。対話的研究がそこからどのように展望されるか。その試論を以下の研究会で行います。

 

■第12回文化理解の方法論研究会(MC研)

【日時】2017年6月17日(土)15:00~18:00(終了後に懇親会を予定しています)

【会場】青山学院大学 青山キャンパス (9号館3階 932教室)

【参加費用】無料

【参加方法】出席を希望される際には、事前にこちらからお申し込みください。

【発表:研究発表】15:00~

タイトル:異文化間コミュニケーションの視点から見た発達障がいと発達支援

発表者:山本登志哉(一般財団法人 発達支援研究所)

内容: 発達障がい児・者を、その特性のゆえに定型社会との間でディスコミュニケーションに陥っている少数派の人々という視点から見ることで、障がいを「障がい者」の側に一方的に帰属させるのではなく、定型者との間に発生するものと位置づけることが可能になる。このとき、支援とは異質な生き方を持つ主体同士のディスコミュニケーションの相互的な調整過程として再定義され、一種の異文化間相互理解の実践として考察する道が開かれる。以上の議論を「差の文化心理学」の視点から、EMS概念を用いつつ展開する。

■研究者に限らず、どなたでも無料で参加できます。

 

 

Cultural Psychology of Differences and EMS

 発達障がい児・者への支援を「異質な感じ方、考え方、ふるまい方」を持った人間同士の「相互理解」の問題として考えてみる、というのが私の基本的な研究スタイルです。このようなスタイルは障がい者と定型発達者の間の相互理解にとどまらず、男女の違い、世代の違い、身についた職業的な考え方の違い、大人と子供の違い、文化社会の違いなどなど、さまざまな領域で「異質な者同士が出会ったとき」に常に問題になることです。

 この「異質な者同士のコミュニケーション」の問題については、かつて高木光太郎さんたちと、3年ほど議論を積み重ねて「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(山本・高木編 2011 、東大出版会)にいったん整理してまとめてみたことがありますし、先日ご紹介した日中韓越の国際共同研究の成果をまとめた「子どもとお金:おこづかいの文化発達心理学」(高橋・山本編 2016、東大出版会)でもずっと問題にし続けてきました。

 これらの議論の基本的な考え方については、すでにケンブリッジやオックスフォードの文化・社会心理学のハンドブックなどでも紹介をしてきましたが、そのうち、「異文化間の相互理解・コミュニケーション」の問題に焦点を当てながら、それらのディスコミュニケーションとしての社会的行為・社会システムの成り立ちについて、一般的に分析する理論的な枠組みを整理して論じたものが「文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生の心理学」(2015、新曜社)という本になります。

 そこで提示された「差の文化心理学」の議論は、そのまま発達障がい児・者と定型発達者のコミュニケーションの問題を考えるためにも使えますが、その理論的な枠組みを用いて、異文化間の対話的な相互理解の実践研究について論じた次の理論論文が、このほどweb上で公刊されました。(紙媒体の雑誌としては少しあとになります)

Yamamoto, T. (2017)  Cultural Psychology of Differences and EMS; a New Theoretical Framework for Understanding and Reconstructing Culture,  Integrative Psychological and Behavioral Science, 51(3) , DOI 10.1007/s12124-017-9388-4

 これは以前にご紹介した、2016年の国際心理学会でのシンポジウムでの発表を論文化したものです。このシンポジウムでコメンテーターを引き受けてくださったValsiner, J.さんからの依頼で、彼がチーフエディターをしているIntegrative Psychological and Behavioral Scienceという学術誌に私たちの共同研究グループで同シンポの特集号を組むことになり、それのために、発表者がそれぞれ論文を作成したもので、ほかの論文も間もなく公刊される予定です。

 

 障がい者と定型発達者の関係は、「力のあるものがないものを援助する」という枠組みで考えられることが多いと思いますが、障がい者の立場から見ると、それでは「自分は<援助していただいている>という弱い立場」だと自分を感じざるを得なくなります。また「援助」する側も「自分は<援助してあげている>」という感覚になってしまうことがよくあります。

 単に「資源を誰が誰に対して供給するのか」といった面で考えると、そのような見方が成り立つ場面があることも間違いのないことですが、それだけを見てしまうと、お互いの関係は「優劣」の面しか見えてこないことになり、「対等な人間同士の共生的な関係」を模索することが不可能になっていきます。

 そのような危険を避けて、「異質な者同士がいかに共生するか」という視点から問題を見直してみるための理論的な基礎作業の一つとしても、上の論文は書かれました。

北京師範大学での講義

 

 2月17日に北京師範大学国際与比較教育学院の主催で、「文化是什么?在哪里? 共同主观性的心理学」(文化とは何か、どこにあるのか。共同主観性の心理学)というタイトルで講義をしてきました。北京師範大学は教育系の大学として中国で最も古い歴史のある国家重点大学で、かつて魯迅も講義をしていたことがありますが、教育学にとどまらず心理学関係でも中国のセンター的な役割を持つ大学です。

 

 私は「異質なもの同士がどうお互いを理解し、共生していくことができるのか」という問題を、様々な角度から研究し続けてきました。現在大きな問題になっている、発達障がい者と定型発達者の共生も同じ課題の一部になります。発達障がいは「定型発達ができない人」という否定的な見方で見て、「どう補い、少しでも定型に近づくにはどうすればよいか」という発想でとらえてはならない、という考え方がようやく広まりつつあります。それは一種の「特性」なのであり、定型発達者と発達障がい者がお互いの特性を生かしあってどうやって共生できるか、が課題となっています。

 そのような共生のためには、「異質なもの同士の相互理解」の仕組みが非常に重要になります。今回テーマとして論じた文化の問題も、まさにその「異質なもの同士の関係」として見ることができる領域で、「文化」という言葉を「障がい」と置き換えれば、その話はそのまま発達障がいの問題に通じることになります。実際異文化間摩擦の発生、異文化不適応の仕組みと、発達障がい者と定型発達者の間に発生する様々な摩擦や不適応の問題は、構造的に非常に共通性が高く、どちらもEMS(拡張された媒介構造)の概念で統一的に説明可能な部分が大きくなっています。

 

 講義に続いて行われた研究会でのディスカッションでも、異文化間対立の構造と、定型発達者と発達障がい者の間に生じやすい対立関係の構造が極めて似ている部分があることも議論されました。文化差の問題も障がいの問題も、「生きるために与えられた基本的な条件」が異なるためにお互いの間にずれが蓄積し、そこに経済力その他の何らかの優劣関係がからんで問題を複雑にし、対立を深刻化させていく仕組みがあると考えられます。

 発達障がい児への支援は、どのようにしてそのような不毛な対立関係を少しでも減らし、お互いに長所を生かしあった生き方を作っていくか、という課題に向けて行われる必要があります。本研究所では、これからもそのような広い視点をもって創造的に支援の在り方を研究していきます。

 

 

 

 

札幌での講演

2月に札幌で、二種類の講演を行うこととなりました。

ひとつは札幌市の教育委員会や障がい福祉課の後援で行われる「人のあいだのことばの働き:ことばの力はどう育つ?」です。私たちが作ってきた「拡張された媒介構造(EMS)」の理論的視点をベースに、世界を共有するコミュニケーションの間主観的・共同主観的な展開として、言葉の発達をできるだけわかりやすく考えてみます。(図をクリックすると拡大表示されます)

もう一つは北大で開かれる「国際スポーツ文化研究会」での講演で、「文化とは何か、どこにあるのか:差の文化心理学の視点から」です。こちらもEMSの理論的枠組みを使いながら、文化が私たちに立ち現れ、時に深刻な文化対立を引き起こす仕組みや、それを対話的に乗り越えるための試みなどについてやや専門的な話をする予定で、幸い心理学だけでなく、社会学の方からのコメントもいただいて議論ができることになっています。(図をクリックすると拡大表示されます)

 

2017年度研究員受け入れ

発達支援研究所では、発達支援事業関連機関から現場で働く方を研究員として受け入れ、発達支援に関する現場に根差した共同研究を展開していきます。

今回はその第一期として、子どもサポート教室から依頼され、以下の方々が2017年度一般研究員として、承認されました。

   札幌旭ヶ丘校 鈴木領人 指導員

   青森篠田校  鈴木美恵 児発管

   埼玉新越谷校 山中かずみ 指導員

   静岡本部校  佐藤圭美 指導員

   岡山平田校  尾島貴弘 児発管

子どもとお金

 まもなく「子どもとお金:おこづかいの文化発達心理学」という本が発売になります。私と大阪教育大学の高橋登さんの共編著ですが,日中韓越四か国の共同研究者が参加したプロジェクトのひとつのまとめの本になります。

 

ws000002 なんでお小遣いの研究なのか?ということですが,こどもがこの世の中で生きていく力を,どんなふうに獲得していくのだろうか,ということを「お小遣い」というのもを切り口に見てみようとしたわけです。

 共編者の高橋さんは,発達心理学者として障がい児の療育等にも深くかかわり続けてきた方ですが,あるときこんな疑問に出会いました。障がい児がお金を使って買い物ができるようになるというのはどういうことなんだろうか?ということです。

 「障がい児が」というのは,つまり療育の現場では,障がい児のお金の使い方について,どう教えたらいいのかを悩んだり,実際にトラブルが起こりやすかったりする,という現実がそこにあるからです。

 そのことを理解するには,「じゃあ健常児はどうやってお金の使い方を身に着けていくんだろうか?」ということが問題になります。健常児が比較的問題なくこなしていくことを,障がい児どこかでつまづいていると考えられるからです。だから,その発達的な仕組みの理解が必要になる。

 これまでも子どものお金に関する研究はないことはないのですが,だいたいがお金をいくらもらっているか,何に使っているかという実態調査のレベルだったり,発達心理学の中では「お金の働きやしくみを<知識として>どう理解しているか」という面の研究に限られたりしています。しかもその時の「お金」ということについての研究者の理解自体が一面的で,「交換の道具,価値を貯める道具,物の価値を図る道具」というくらいの理解にとどまる。専門的に言えば「経済的道具としての貨幣」という理解にとどまっています。

 けれども実際に生きたお金の使い方の世界はそういうレベルでは収まりません。お金は何とでも交換可能な「魔法の力」を持っていますから,欲望を全開させて使い方を誤ると身を亡ぼす。お金が絡むと人間関係がややこしくなりがちで,使い方を誤ると人間関係が壊れる。ものすごく危険な「道具」なのです。

 だからどこの社会でも,親は子どものお金の使い方にとても神経質になります。ベトナムの親御さんたちは,「薬物の使用」というような深刻な例を出して子どもにお金をあげることについて心配していました。日本の学校の先生はお金の使い方が荒くなると非行につながると心配していました。韓国の親御さんはおごりをちゃんとしないと友達とうまくやっていけないと心配していました。中国の親御さんはお小遣いで学費を払う子どもを自慢していました。

 上手にお金を使うということは,その人の欲望をコントロールすることであり,社会的に適切な使い方をできるようになることであり,それによっていい人間関係を作ること,そして幸せになることにつながらなくてはならないわけです。

 お金の研究を国際比較でやることの意味もここに出てきます。つまり「どういう人間関係を目指して,お金をどんなふうに何に対して使うのか」ということの基本的な考え方が,社会社会,時代時代によってものすごく異なるからなのです。

 子どもは親とのやりとりの中で,そして友達関係の中で,そういう「その人たちにとって大事な生き方」を学ぶ手段として,お小遣いの使い方を学んでいくことになります。それはそれぞれの文化によって異なるのです。

 お金を単に「経済的道具」として理解するだけでは,そういうことが全然見えてきません。そこで私たちはお金を「文化的道具」として理解するという立場をとりました。お金の使い方を身に着けるということは,ですから,「お金という文化的道具を習得する」過程なのです。だから私たちの研究は「文化発達心理学」ということになります。

 障がい児というのは,その社会で求められる道具の文化的使い方の習得にどこかで困難を持っているとされる子どもたちです。それは単に知的な理解の話にとどまりません。人との関係で自分の欲望を上手にコントロールしながら,うまく人間関係を作って生きていくという問題につながる。だから発達支援ということも,そういうトータルな視点で考えていく必要があるわけです。

 お小遣いからそういう問題がいろいろ見えてくることになります。

ママカフェ:当事者の自助グループと「専門家」の役割

 先日,仙台のこどもサポート教室に招かれて,保護者の集まりとして始めたママカフェにファシリテーターとして参加してきました。参加されたのはみなさん発達障がいのお子さんを子育て中のお母さんでした。おなじ困難を抱える当事者の自助グループという感じですね。

 時間も割合短かったので,お一人ずつご自分の子育ての苦労などについて自己紹介を兼ねて順にお話していただきました。中には友達同士声を掛け合って来られた方もありましたが,だいたいはみなさん初めての顔合わせという感じでした。

 

 過去に障がい児通園施設で発達相談をしていた時に,障がい児を抱えて大きな不安を抱え,悩んでいる保護者(特にお母さん)に対して,ある意味で一番支えになるのは,同じ困難を抱えたお母さん同士のつながりではないかと感じたことがあります。

 発達心理学の専門家が療育に携わる場合は,自分が持っている子どもの発達についての一般的な道筋や発達の仕組みに関する知識を利用しながら,子どもに対する支援の仕方について「専門家」として「客観的」にアドバイスを行うことが仕事です。「子どもや保護者の思い」に「寄り添い」ながらアドバイスを行う,ということは基本的な姿勢として大事だとしても,そこから「客観的」な視点を外すことはできません。

 専門家が困難を抱えた子どもや保護者などの「当事者」とは違う役割を果たせるのは,この「客観的」な姿勢を保つということができるからです。それは確かにひとつの長所なのですが,当然その長所がそのまま短所にもなります。

 子どもも保護者も,当事者はその人が抱えた困難を,ずっと一緒に生きていかなければなりません。誰も自分を捨てることはできませんから,その生き方の中に,その人なりの困難は切り離せない形で組み込まれていくことになります。(もちろんいわゆる障がい者でなくても,すべての人がその人なりの困難を抱えて生きている点では同じですが,今は障がいに特有の困難に焦点を当てて考えます)

 専門家もまた自分の私的生活の中では同じ問題を抱える場合もありますが,それがあるから専門家である,ということではありません。ある限られた時間や空間でだけ,専門家はその困難を抱えた当事者と向き合うという仕組みからは離れられません。そこが「家族」という当事者の立場とは決定的に異なる部分です。

 当事者にとって専門家の知識や技術などはもちろん役に立つ部分があるわけで,だからこそわざわざ時間や費用をかけても専門家に援助を求めるわけですが,そこで求められる援助はあくまえも「当事者ではない」という立場からのものに限られるわけです。

 当然,そこで当事者には専門家には解決のしようがない,当事者だからこそ抱える困難が残ります。そこの部分は専門家にはどうやってもてが届かない領域になるわけです。

 まさにその部分について,「同じ困難を抱えたお母さん同士のつながり」あるいは「当事者同士のつながり」が生きてくることになります。

 もちろん,当事者同士と言えども,違う家族同士の場合,相手の困難を自分が引き受けてしまうことはお互いに無理です。相手の抱えた悩みを自分が変わって抱えてあげることはできません。けれども「同じ悩みを抱えている」ということをお互いに確認することだけで,人は支えられることがあるのですね。「ああ,こういうことで悩んでいるのは自分だけじゃないんだ」と知ることが,人をどれほど支えるかは,経験者ならばよく分かることだと思います。

 

 ママカフェはそんな場の一つになるわけです。実際,その第一回のママカフェに参加されたお母さんたちの感想は,多くが「他のお母さんが同じような問題を抱えている話を聞いて,とても気持ちが支えられた」ということを書きこまれていました。そして終了後も実際に用事のある方を除いてみなさんその場に残り続け,お互いに話を続けていらっしゃいました。

 

 京大の防災研にいる矢守克也さんは,神戸大震災の後,心理学者としてずっと被災者遺族の「自助組織」に関わってこられました。以前日本質的心理学会のシンポジウムで,矢守さんやノンフィクション作家の柳田邦男さんたちがご自分の喪失体験やあるいは喪失体験を持つ遺族の自助組織などでの経験から議論をされる場があり,そこにコメンテーターとして参加させていただいたことがあります。そこで聞いた矢守さんの話がとても印象的でした。

 遺族の皆さんは,なんの前触れもなく,突然に大事な家族を失う,という厳しい喪失の体験をされています。そういう共通の体験をした当事者同士が自助会でお互いの体験を語り合うことでなんとか支えあえる。なぜそういうことが起こるか,というと,ちょっと逆説的ですが,「自分が抱えたこの苦しみは,他人には決してわからない」という思いのゆえだというのです。

 「自分にしかわからない」のだとすれば,どうして語り合うことで支えられるのか,というと,「自分にしかわからない辛い体験を持っている」という点で,お互いに「同じだ」ということを感じる。そこで共感して支えられるというわけです。決して癒えることのない深い思いを,相手が代わりに背負ってくれることはできない。それは自分で抱えていくしかないものです。でもそうやって苦しんでいるのは自分一人ではない,ということを知ることが,支えになる。

 おなじ苦しみを知っているから,そしてそれは自分にしか抱えられないものであることを知っているから,その限界を抱えながら助け合うということも可能になっていく。そこには「自分がこの人を救ってあげる」とか「この人に自分は依存する」というような関係はありません。それぞれが自分の人生に責任をもって生きる中で,相手に共感性をもって,自分ができる範囲のことを手助けしあう可能性がそこから生まれてくるわけです。

 

 この点で,当事者ではない専門家ができることはありません。可能なのは,せいぜいがそのような当事者間のつながりにきっかけを提供し,またお互いに話しやすい雰囲気を作っていき,コミュニケーションを促進するファシリテーターの役割だけです。そしてそういうスタンスが,実は専門的な知識や技能を活かす発達相談も含め,発達支援全体に必要な,当事者に対する専門家の基本的な姿勢になるのではないか,そんなふうに私は考えています。

 

 

 

 

視点を変える

 

 ある記事を見て,早速夏休みの自由研究工作をやってみました。

 左側の写真に写っているのは,ドーム型の屋根ですよね。まんなかは少し角度を変えて撮ったものです。

 右側のは波型の屋根でしょうか。左二つと右側は全然違うものの写真に見えます。

 そこで左側の写真に写っているものを,もう少し角度を大きく変えながら見てみましょう。

 

 

だいぶおかしな雰囲気です。そこでもう一歩。

 

 

ということで,後半少し間を省略しましたが(前後をひっくり返す部分),めでたくドーム型と波型の屋根が一体となってつながりました。

 

 一般的には「だまし絵」と言われるものの立体版です。心理学的には錯視と呼ばれる現象で,人間の知覚の秘密を探る大事な研究領域のひとつです。これは明治大学の杉原厚吉さんの「作品」で,こちらから設計図を手に入れて,みなさんもわりと簡単に作ることができます。

 

 心理学の講義をして,入門的な授業でも一番受講生の興味を引くテーマの一つがこの錯視という現象です。「あたりまえ」と思っていた見方が崩れて,全然違う見方がそこに急に現れてしまう。物理的には全く同じ「ひとつの物」なのに,私たちの体験の世界,つまり心理的には「別のもの」「複数のもの」になってしまう,というのがこの錯視現象の面白さです。

 

 「ドーム型」と「波型」というまったく別のもののはずなのに,それが実は物理的にはひとつのものだと考えられる。理屈からいうと「矛盾した話」ということになりますが,心理学ではその矛盾をこう考えることで解こうとします。とまり「ドーム型」なのではなくて,「ドーム型に見える」,そして「波型」なのではなくて「波型に見える」と考えることです。

 

 物理的にはひとつのものなのに,私たちの体験の世界では二通りに「見える」。どっちの見方が正しいか,という問いは意味がありません。どちらも「正しい見え」なのですから。一見矛盾しているように見えるのは,「見る視点が違っている」ことに気づかないからにすぎません。同じものを違う視点から観れば,違うように見えるという,言ってみればそれだけのことなのです。

 

 じゃあその「見え」ってどうやってなりたつのだろうか。というのが心理学の根本問題の一つになります。錯視を扱う知覚心理学(認知科学)が心理学の王道と言われるのはそのためです。私が学生の頃も,優秀な学生は知覚をやる,というなんとなくの評判がありましたし,実際知覚を専攻した人たちは,「切れ者」が多かったと思います。

 

 なにしろ「常識」にとらわれていてはわからない世界です。一体その常識はどうやって成り立っているのか,ということを,ある意味で常識の「外」に立って,まったく異なった視点から考える力が必要な作業です。

 

 障がいの問題を考えるにも,同じような力が必要になります。よく,言葉の遅れがある子どもについて,「どうしたら言葉が出るようになるでしょうか?」と聞かれます。「どう接したらいいか全然わからない」と困惑する声にもしばしば出会います。なぜ困惑するのでしょうか?

 

 それはその人が「言葉ができるのがあたりまえ」としか考えてこなかったからです。というより,考えることすらなかったはずです。文字や書き言葉は学校で学ぶ必要があるとしても,喃語を学んでできるようになる人はいません。指さし(言葉の力の前提)を手取り足取り教わることもはいません。みんな「いつの間にかできてしまう」。それが「常識」なのです。

 

 療育はそういう「常識」に挑戦する作業です。当たり前と思っていたことが,実は当たり前ではないんだ,とうことに気づくこと。それが療育への入り口です。

 

 「なんでこの子はできないんだろう?」としか考えられないうちはまだまだ狭い常識の枠内でしか考えられていません。もう少し進むと「これができるってどういうことなんだろう?」という問いが始まります。そしてその次には「なんで私はこれができているんだろう?」というところに考えが進み,さらには「私がこれができるってなんて不思議なんだろう?」と思えるようになる。そこまで行くと,本当に療育のことを深く考えることができ始めます。

 

 新たな時代を切り開く創造的な心理学的理論は,どこかそういう「常識に満足しない」視点を持っています。ピアジェ理論の限界は今では明らかですが,しかし彼の議論は本当に天才的で今もきらきらと輝き続けています。それは当たり前を当たり前と考えず,子どもが大人とは違う当たり前の世界を持っていることに気づき,その仕組みを次々に明らかにしていったところにあります。

 

 発達障がい者は多くの場合,「当たり前」の世界に苦しみ続けます。定型発達者が努力せずに普通にこなすことに,うまく対応できないからです。定型の側はなんの苦も無くこなすことですから,なんの悪気もなく相手にそれを要求し続けます。発達障がい者はその障がいを知らないときには,なぜ自分がそれができないのかがわからず,これも「できて当たり前のはず」という思いに苦しめられます。

 

 その結果,たくさんの二次障がいが生まれます。

 

 発達障がいは「治る」という種類のものではなく,だから「治療」や「矯正」という考えではいけないのだ,という理解がようやく一般にも広がってきました。男性には男性特有の傾向があり,女性には女性特有の傾向があり,その傾向を無視して自分を作ることには意味がないように,定型には定型に特有の傾向があり,発達障がい者には発達障がい者に特有の傾向があり,そのことを前提に,それぞれがその傾向を活かした自分を作って生きていかなければならないはずなのです。

 

 それを可能にするためには,やはり「当たり前」の世界をもう一度見つめなおすことがどうしても必要になります。なぜならその当たり前はだいたい定型向けの常識で成り立っていて,発達障がい者には向かないものであることが多いからです。発達障がい者がしばしば嘆く言葉に「空を飛べと言われているようなものだ」というものがあります。定型の「当たり前」は実はしばしばそういう「理不尽(非常識)」な要求なのです。

 

 無自覚にそういう「理不尽」な要求を続けることから,二次障がいが生まれるのだとすれば,ここで違う視点で考えてみる必要が出てきます。

 

 発達障がい児は「これができない」と考えるのではなく,違う個性をもって「違うやりかたをしている」のだという,別の視点から見つめなおしてみること。そこからそれまでとはまた違った可能性の世界がきっと見えてくるはずです。同じ一つのものが別の角度から見ると違って見える。この写真のように。

 

 

 そんなふうに一つのものを多様な視点で眺め,同じものに違う可能性を見るというのが,言ってみれば最も心理学的な,心理学の王道を行く障がい理解ということになるでしょう。

 

(工作のこつ:折り目は角に合わせてきっちりつくりましょう。ちょっとしたズレで見え方が変わってしまいます。見るときは片目で見ましょう。光の当たり方でも微妙に見え方が変わることがあります)

 

2016年08月28日