ズレの調整としての「療育」「支援」

 先にご紹介した「第12回文化理解の方法論研究会(MC研)」での発表(異文化間コミュニケーションの視点から見た発達障がいと発達支援)には、若手の研究者の方たちも新たに何人も参加してくださって、3時間余り私の発表を熱心に聞いてくださいました。

 人と人のコミュニケーションはお互いの感じ方や理解、やり方などにズレが大きいとうまくいきません。そのずれがある程度以上大きくなると、そのコミュニケーションはディスコミュニケーションとして意識されるようになります。

 このような状態は何らかのコミュニケーションがあるところでは常に発生するものです。たとえば私が研究上直接扱ったものに限っても異文化間のコミュニケーション(異文化対立)、大人と幼児のコミュニケーション(しつけ場面)、取調官と被疑者のコミュニケーション(冤罪を生む取調)などで典型的ですし、さらに身近には夫婦間のコミュニケーション(夫婦喧嘩)や教師と生徒(生徒指導や授業場面)、職場の上司と部下(指導場面)など、あらゆるところでその状態を見出すことができます。

 同じことが発達障がい児者と定型発達者の間にも起こる、というのが今回の研究発表の中心的な議論になります。

 通常はこの発達障がい児者と定型発達者の間に生まれるコミュニケーションのズレは、定型の基準によって判断され、発達障がい者は「正しい基準を身に着けられない、基準にそって行動できない」人として「障がい児者」とみなされます。けれども少し視点を変えて発達障がいと言われる人は、「定型発達者とは少し異なるものの見方や感じ方、ふるまい方を特性としてもって生きている人々」と考えた場合、また違う見方が生まれることになります。

 20年ほど前から発達障がいの当事者が自らの世界を本などによって語ってくれるようになり、定型発達者とは大きく異なる当事者の世界やその世界での生き方が私たちにも少しずつ見えてくるようになりました。Eテレのバリバラといった番組では、発達障がい者の「生き方」をポジティヴに見ていこうとする面白い試みが続いています。さらに現在はその当事者が自らの立場を研究する当事者研究もだんだん進んできています。

 医療の分野でも発達障がいの問題を「治療の対象」という形では見ず、個性的な生き方のサポートといった視点から見る立場が少しずつ力を持ち始めているようです。

 まとめていうと、発達障がい者は「定型発達者からの援助の<対象>」ではなく、定型発達者とは異なる特性を持って主体的に生きる<人>として社会の中に現れ、自らを主張できる存在になりつつあるということになります。障がいの問題はそこで、「障がい者の問題」ではなく、「お互いの問題」になります。

 この視点から見ると、「障がい」の「症状」として語られてきたものは、お互いの特性の違いから生まれるディスコミュニケーション事態として理解されなおすことになり、そうすると「療育」「支援」はそのディスコミュニケーションを「お互いの工夫で調整していく働き」という形でその意味を変えていくことになります。

 そんなふうに異なる生き方を持つ人どうしが接触していろいろなトラブルがおこり、関係の調整が必要になる、というこの仕組みは「異文化間接触」の場面で常に起こることなのです。したがって発達障がいの問題を「異文化理解」の問題として分析し、議論する可能性がそこから見出されることになります。

 研究会の当日はそんな話をして、多くの方に興味を持っていただけたようです。今後の展開が楽しみです。

 12回MC研山本レジュメ

 

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