浜田寿美男「形成論から考える発達障がい」

1)ピアジェが見落としたもの

【山本】 浜田さんは今は法心理学の分野で、供述評価をめぐる日本の刑事司法の在り方を変え始めるような大きなお仕事をされているわけですが、もともとはピアジェの主要著作の翻訳をされたということで発達心理学で非常に重要なお仕事をされていますよね。

  そしてピアジェへの批判的検討が自閉症についての、私は根源的と言っていいと思うのですが、重要な理解にも結び付いていく。

  昨年も『もういちど自閉症の世界に出会う:「支援と関係性」を考える』(ミネルヴァ書房)という共著書の中で、改めて浜田理論からの自閉論を整理して語られています。その出発点である『知能の誕生』の翻訳の経緯などをまず教えていただけますでしょうか。

浜田寿美男先生のプロフィール
1947年、香川県の小豆島に生まれる。京大文学部、同大学院、花園大学教授、奈良女子大学教授を経て、同大学名誉教授。発達心理学を専門とし、自然科学的に外から記述する心理学の限界を問題として、具体的な生活世界の内に「渦中に生きる」人間の在り方を深く問い続け、自閉症理解にも通じる独自の視点を切り開く。同じ視点から虚偽自白や障がい児の目撃証言理解など、供述分析の問題に日本の心理学者として初めて取り組み、法と心理学会の初代理事長も務め、日本の法心理学の開拓者でもある。
(聞き手:発達支援研究所、山本登志哉)


【浜田】 大学紛争の時代背景の中で、大学院生の頃、ウェルナーとカプランの『シンボルの形成』を鯨岡峻さんと一緒に訳したのがスタートで、そのあとウェルナーの『発達心理学入門』を訳しました。その当時ピアジェの学齢以降の認知発達の本や初期の臨床質問法による研究の本はいろいろ訳されていたんですが、その中間に自分の子どものことを観察して研究した三部作『知能の誕生』と『現実の構成』と『シンボルの形成』がまだ訳されていなかったんです。そのあと牧康夫先生にこれはぜひ訳したほうがいいと勧められて、谷村(覚)君と訳し始めたという経緯でした。喧々諤々(けんけんがくがく)、お互い批判しあいながら翻訳をしました。

  まあ面白かったのは面白かったんですね。ただ、ピアジェの議論は実際の子どもの観察をデータにして、隙間のない形で子どもの育ちを理論化するという、力業でやっているのは確かなんですが、何となく好きになれない。彼の発想は子どもの姿を、子どもと周りの物の世界では描くんだけど、人どうしの関係がほとんど出てこないんですよ。ワロンとの対比で言うと情動の問題、対人的な問題が一切抜けてしまう。

  たとえば8か月ごろ(感覚運動期の)第四段階に手段目的関係の理解として知的行為が組み立てられていきますが、そこには「意図」が生まれて単なる反射的行動の組み合わせのレベルを超えます。ピアジェは子どもが目的物を取ろうとする(目的)ときに手を出して邪魔をしてみると、子どもは手をどかして(手段)取ることができるようになるという実験をしているわけです。

  でも邪魔されたら普通子どもは怒ったり泣いたりするでしょう(笑)。そういうことをピアジェは一切記述せずにただ単に「障害物をのけて」という説明になる。お父さんの手は単なる障害「物」にすぎないわけですね。それは違うんじゃないかという思いがあって、翻訳をし終えて「これでピアジェはやめました」という気分になりました(笑)。

  ピアジェは面白いし、外の世界をどうとらえて時間空間の世界をどう認識していくかという問題としては非常に興味深いですが、人がほとんど登場しない。シンボルの形成についての議論も対物的な認知の上に記号が入るという発想になっている。ピアジェ=ワロン論争というのがありましたので、ワロンも勉強しようということで『身体=自我=社会』はその論文集をもとにして訳したものです。

【山本】 その本は私も学生時代、みんなで研究会をやって大変お世話になりました。

【浜田】 ピアジェはそもそも人の身体は他者を予定しているという、そのあたりがまだ十分とらえられていない。そういう意味ではコミュニケーションの議論をする上では割り切りすぎてあまり役立たない。実際の育ちの過程や障がいの問題はとらえきれないんじゃないかと思ってました。

  ちょうど翻訳をしていたころは、重度の(障がいの)子ども達の現場(療育園:のちに『子どもの生活世界の始まり』に描かれる)で一緒に考えないかと言われて、僕も自閉の人と出会ったりして、この問題を考え始めた時期でもあったので。

  コミュニケーションといった時に、記号の理解とか記号行動としてとらえるのではなくて、人関係としてとらえることが大事なはずなんです。記号が発生してコミュニケーションができるんじゃなくて、記号以前のコミュニケーションがあって記号が発生するという考え方でいかないとおかしいんじゃないかと。その点ではピアジェは全く逆です。

  ワロンは「人間は脳そのものにおいて社会的である」なんていう言い方もして、そもそも身体が社会的にできてしまっているというところを認めるところから出発する。ピアジェには「そもそもそうなっている」というところから出発することがない。

【山本】 ピアジェの場合、物に対する身体のあり方、反射的な行動などのレベルでは「そもそもそうなっている」というところから出発するんでしょうけれど、人との関係についてはそれがない。

【浜田】 そう、そうですね。人との関係をそういう目で見ることがない。コミュニケーションを見るときに、(個体的な)認知の延長で見るのか、それともまず他者とつながってしまっているというところから見るのかで違いますよね。その辺で、理論をどう組むかというところで、そもそもスタートが違うという感じがします。

 next > 自閉症を理解する視点

ミニ解説 ピアジェの発想

ピアジェは「論理数学的知能」の発達について、画期的な研究を行いました。けれどもその理論には物の世界をどう扱い、どう理解するかはあっても、「人とどうやってかかわれるようになるか」という問題が抜けてしまい、物の理解の単なる延長のように考えてしまいました。その結果お父さん(ピアジェ)の手も単なる物扱いです。

このエントリーをはてなブックマークに追加